1978年(昭和53年)、雪印乳業(現:雪印メグミルク)から発売された「宝石箱」は、今なお復活を望む声が多い伝説のアイスクリームだ。復活してほしいアイスのランキングでは常にダントツの1位を獲得しており、昭和の子どもたちの記憶に「憧れの存在」として強く刻まれている。今回の記事では、この「宝石箱」について振り返ってみたい。
1978年当時の市場環境と「宝石箱」の登場
23年度、日本のアイスクリーム市場規模は約6,000億円に達しているが、「宝石箱」が発売された1978年当時は、その約3分の1の2,000億円程度だった。この時代に登場した「宝石箱」は、アイスクリーム市場におけるゲームチェンジャーとなった。1978年5月下旬の発売後、同年度に22億円の売上を記録。これは、アイスクリーム業界において、1971年に明治乳業(現:明治)から発売され大ヒットした「レディーボーデン」に続く大きな成功例となった。
「宝石箱」の大ヒットの要因として、商品の斬新さ、秀逸なプロモーションに加え、この年が60年ぶりの猛暑を記録したことが挙げられる。当時、コンビニエンスストアは季節を問わずアイスクリームを販売していたものの店舗数も限られ、流通チャネルとしての影響力は現在ほど強くなかった。需要の70%が天候に左右される時代において、天候要因も追い風となった商品だったといえる。
雪印 宝石箱とは
「バニラに 香りの宝石 散りばめて」というキャッチコピーを掲げた「宝石箱」は、その言葉通り、宝石を散りばめたような美しいビジュアルで、発売直後から大きな話題を呼んだ。それまでのアイスクリームは、シンプルな円形の紙カップが主流だったが、「宝石箱」は業界初となる「角型押し蓋容器」を採用。当時の食品では珍しい、黒を基調とした高級感あふれる四角いパッケージデザインで差別化を図った(現在では、ロッテ「爽」が角型容器として市場に定着している)。
商品展開
フレーバーは、ストロベリー(赤:ルビー)、メロン(緑:エメラルド)、オレンジ(山吹色:トパーズ)の3種類。各フレーバーとも、アイスクリームをベースに、宝石をイメージした着色氷の粒(6~9mm程度のふぞろいな氷)をアイス全体の15~18%程度散りばめていた。価格帯は、アイスクリーム規格が120円、アイスミルク規格が100円の2種類を展開。その後、1980年には「モカコーヒー」「チェリー」、1981年には「アップルカクテル」「レモン」が追加された。さらに、480mlのホームタイプや業務用5Lタイプも発売。当時のカップアイスは30円か50円が主流だったため、100円を超える「宝石箱」は高級アイスとして、子どもたちにとって憧れの存在だった。その特別感が、現在も続く「宝石箱伝説」の源となっているのだろう。
商品の革新性
「宝石箱」は、アイスクリームでありながら清涼感のある歯ごたえを楽しめる画期的な商品であった。翌1979年には、エスキモー社(現・森永乳業)から、アイスクリームとフローズンシャーベットを組み合わせた粒氷感が特徴的な「MIKA(ミカ)」が発売された。また、フタバ食品からは、夜空の星をイメージしたカラフルな粒氷を散りばめた「きらめく星空」が登場した。これらの商品は類似性が高かったものの、当時の開発担当者によると、この時代の業界において、模倣力もメーカーの技術力を証明する一つの指標とされていたという。いずれも「宝石箱」を参考にし、その影響を強く受けた商品であった。
1970年代半ばには、かき氷の中心に円形のバニラアイスを充填した「フロート」がヒットした。これはかき氷にアイスクリーム要素を加えた商品であった。一方、アイスクリームに氷の要素を組み合わせた商品としては、「宝石箱」が先駆けとなった。現在では、ロッテの「爽」や「クーリッシュ」をはじめとする微細氷入りアイスが数多く存在する。アイスクリームと氷の組み合わせという革新的なアプローチを確立したのは、まさに「宝石箱」であったといえる。
プロモーション戦略
「宝石箱」の人気を決定づけたのは、テレビCMの影響が大きい。当時、雪印のアイスクリーム部門はピンクレディーを起用して幅広く製品を宣伝していたが、中でも空前の大ヒットとなった「宝石箱」の印象が強く残った。その後、2代目として当時人気が急上昇していた宝塚月組の大地真央を起用したものの、多くの人にとって「宝石箱」のイメージは、やはりピンクレディーと結びついている。さらに雪印アイスクリームは、市価50万円相当の銀座和光の宝石(ルビー、エメラルド、シトリンの指輪)が当たる豪華キャンペーンを展開。さらに、ミー(未唯mie)とケイ(増田啓子)そっくりの「ピンクレディーのくねくね人形プレゼントキャンペーン」も実施し、話題を呼んだ。
ピンクレディーが彩る「宝石箱」の黄金期
「宝石箱」の大ヒットを決定づけたのは、当時人気絶頂だったピンクレディーを起用したテレビCMだ。CMソングには、彼女たちの大ヒット曲「モンスター」のB面曲「キャッチ・リップ」の替え歌が採用され、強烈なインパクトを残した。「宝石箱」の成功を受け、翌年には氷の粒を渦巻き状に充填した姉妹品「キャッチリップ」(100円)も発売されたが、こちらは前作ほどの反響は得られなかった。その後、2代目イメージキャラクターに大地真央を迎え、新たなCMソング「マイ・ジュエリー・ラブ」でブランドの刷新を図る。あの時代に子供時代を過ごした世代なら、「アイスの宝石箱のCMソング」を聴くだけで、懐かしい記憶が鮮やかによみがえるだろう。
アイス業界のファッション化
「宝石箱」の成功は、アイス業界に新たな潮流を生み出した。当時、業界は森永乳業、明治乳業、雪印乳業、協同乳業などの「乳業系」と、森永製菓、江崎グリコ、ロッテ、カネボウ食品(現:クラシエ)などの「菓子系」の二大勢力に分かれていた。
1970年代に入るまで、アイスクリーム業界では商品名すら付けず、「乳業系」メーカー中心の乳脂肪分の高さを競う品質第一主義の時代が続いていた。しかし、1970年の大阪万博を契機に第一次ファッションブームが到来。カネボウ「BOB(ボブ)」の登場により、アイスクリームに個性が求められ始め、業界は大きな転換期を迎えた。この時期、後発参入のロッテが独自の革新的なアプローチで業界に新風を吹き込んだ。1972年、アイスクリーム業界への新規参入と同時に、”太陽のデザート”というキャッチコピーで植物性の「イタリアーノ」を投入。乳脂肪分重視の時代に、ラクトアイスという新しい選択肢を提示した。1978年には、雪印乳業から「宝石箱」が登場したことで、アイスクリームの第二次ファッション化が本格的に加速。同年、ロッテはアイスクリームとフーセンガムを組み合わせた「バブヤング」を発売し、斬新な商品開発の先駆けとなった。
商品革新の加速
1979年には森永製菓が、当時流行していたハンバーガーをイメージした「アイスバーガー」を発売。続く1981年、ロッテは「バブヤング」の発想を発展させ、スティック部分がガムの「ガムンボ」を投入。さらに同年、夏季が主戦場だった業界の常識を覆し、こたつで食べる「雪見だいふく」を発売して冬場の需要を開拓した。このように、1970年代から80年代にかけて、アイスクリーム業界は大きな変革を遂げた。現在では赤城乳業が「ガリガリ君」をはじめとするユニークな商品群で知られているが、その礎を築いたのは、この時期の革新的な商品開発だったといえる。
雪印 宝石箱 復刻版
「宝石箱」は、2006年に「北海道バニラバー 夢の『宝石箱』プレゼントキャンペーン」として一度だけ復活を果たしている。このキャンペーンでは、アイススティックに刻印された北海道マークを見つけた人に必ず「宝石箱」がプレゼントされ(500名限定)、牛マークを4つ集めて応募すると抽選で1,000名に当たるという2段階の企画だった。
復刻版「宝石箱」は、ストロベリー、メロン、オレンジの初代フレーバー3種のカップアイスが各4個、計12個入った豪華な詰め合わせとして登場。容器は当時の紙製からプラスチック製に変更されたものの、宝石のような氷の粒を散りばめた独特の味わいは忠実に再現された。
永遠の憧れ「宝石箱」
1970年代から1980年代に子ども時代を過ごした世代にとって、「宝石箱」は特別な存在だった。黒を基調とした高級感あふれるパッケージ、宝石をイメージした鮮やかな氷の粒、ピンクレディーが彩るテレビCM、そして「高級アイス」という特別感――これらの要素が見事に調和し、単なるアイスクリームを超えた憧れの存在となった。
「宝石箱」の影響は、ヒット商品としての成功にとどまらない。アイスクリームと氷の組み合わせという新機軸を確立し、後続の商品開発にも大きな影響を与えた。さらに、アイス業界全体のファッション化や高付加価値化を促進する契機となり、アイスクリーム市場の可能性を大きく広げたのである。
今なお根強い復活希望の声が示すように、「宝石箱」は昭和の子どもたちの夢と憧れが詰まった、まさに伝説的な商品といえる。その輝きは、タイトルそのままに宝石のように、40年以上の時を経た今もなお、多くの人々の記憶に鮮やかに刻まれ続けている。
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